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美学芸術学


 美学芸術学専修課程は、その名が示すとおり、美や芸術に関する研究を行うところです。しかしその内容は、対象も方法もきわめて多岐にわたっています。提出される卒業論文のタイトルをちょっと眺めてみただけでも、カントやベルクソンの思想といった、美学の「王道」ともいえるテーマの研究に加えて、音楽や映画といった個別の芸術ジャンルにかかわる作家研究や作品研究、さらには、ゴジラ、妖怪、刺青、床の間といった、一見しただけでは、これが本当に美学や芸術学の卒論なのかしらと思ってしまうようなものにいたるまで、多彩なタイトルが並んでいます。はじめてみた人はあるいは、この研究室は単なる「好き者」の集まる同好会のようなものにすぎないと思われるかもしれません。しかしそうではありません。学問としての厳格さを守りながら、他方で、芸術のみならず、文化のアクチュアルな状況と関わる多様なテーマの共存を許容している、このわれわれの専修課程のあり方には、それなりの歴史的・思想的背景があります。
 この専修課程が「思想文化学科」と呼ばれる哲学系の学科に属していることからもわかるように元来、美学は美という価値について、また芸術学は芸術という人間の営みの本質について探求する哲学として展開されている学問です。ただ単に個別的な芸術作品の歴史や内容について関心をもつだけでなく、美や芸術をめぐる現象の根源にまでさかのぼってその本質や根底にある構造を解明しようとする問題意識が、この美学芸術学という学問領域を支えているのです。この学問を学ぶということは、そういう問題意識を共有するということであり、一見趣味的な対象を扱っていても、それはたとえば、ただ単に芝居の見どころを解説するとか、音楽の歴史を調べたりするというようなこととは違う視点から対象をみようとする姿勢が背後にあるのです。
 そういう意味で、美学芸術学専修課程に進学してくる学生には、美や芸術に関わる体験を当然の如くにただ漫然と積み重ねているのではなく、そのようなごく当然にみえる体験の中で、当たり前のように受け入れてしまっている事柄自体に疑問を抱いて、その根拠をあらためて問い直してみるような態度が求められます。
 しかしそのことは、個別的な問題はどうでもよく、本質を問うことだけが重要だというようなことでは全くありません。もともと、美的体験や芸術体験といったものは個人的な体験の色彩が強く、なかなか一般論に解消して論じにくいことから、具体的な事例から出発して思索を深めるという方向をとることはある種の必然でもあったのですが、とりわけ最近では、他の分野同様、美学や芸術学という学問も大きな転機にさしかかっており、そのため具体的・個別的な考察と連動した形で問題を捉えるような態度が強く要請されるようになってきているからです。
 早い話が、芸術というような概念自体、このような具体的・個別的な考察を欠いては正しく捉えることはできません。芸術という概念の歴史を調べてみれば、われわれが今日使っているような意味でのこの概念が成立し、「芸術家」と呼ばれるような社会集団が生まれてくるのは、実はそれほど古いことではなく、18世紀以降、どんなに古く見積もってもルネサンス以降のことであるということがわかります。しかしそれもあくまでも理論の上での話であり、18世紀になっても、場合によっては19世紀にはいっても、芸術は現実には必ずしも今日考えられるような自律的な存在として機能したわけではありませんでした。モーツァルトはもちろん今日われわれが「芸術家」として認識するような一面をそなえていた部分もありますが、注文主の希望に応じて仕事をする「職人」に近いような部分もかなり強くもっています。
 だから「芸術」などという概念は取るに足らないなどと言っているのではありません。むしろ、「芸術の終焉」などということが取り沙汰される今日でも「芸術」は巨大化しています。過去の芸術の枠組みを解体しようとしているかのようにみえる現代の芸術も相変わらず「芸術」として機能し続けていますし、それぞれの文化の中では本来「芸術」と呼ばれていなかったような様々な民俗芸能や民芸品などが、今日では「芸術」との関わりのもとに語られています。現在ではさらに、高度な複製技術や多様な情報メディアに支えられた大衆消費社会の中で、大衆文化や大衆芸術と呼ばれる美的現象が我々の日常に充満しています。そういう状況を考えたとき、それらを無反省的に一括して「芸術」という名前で括ってしまい、あたかもその本質が一義的に規定できるかのような形でものを考えることがいかに危険であるかがわかるでしょう。むしろ現代においてこそ、改めて「芸術とは何か」が強く問われているのです。同じ芸術という名でよばれている対象でも、それらが芸術と呼ばれるにいたる過程は千差万別であり、その過程には当の対象を取り巻く社会状況や経済的要因をはじめとする、様々な要素が関わっているのです。それゆえわれわれは、当の対象が芸術であるという自明の前提から出発するのではなく、その当のものが「芸術」として機能するに際して、どのようなメカニズムや論理が働いたのかということを個別的なケースに即して具体的に見極める必要があります。われわれの専修課程が理論的な考察を中心にすえながらも、とりわけ芸術の現代的な状況に関わる個別的・具体的な問題意識や研究を重視しているのは、そのような理由によっているのです。
 このことはまた今、美学や芸術学という学問がその内部の論理に閉じこもることなく、歴史学、社会学、文化人類学等の様々な隣接分野とも連動した学際的な研究を展開することを求められているということを示してもいます。その意味で、美学芸術学に進学してくる学生は、ただ芸術が好きで芸術についてよく知りたいということをこえて、その種の人文・社会科学的な問題意識の上に立って、むしろその延長上で芸術を対象に考えてみるというような心構えがもとめられるとも言えましょう。
 しかしそのことは決して、先人たちが積み上げてきた伝統的な美や芸術についての思考の歴史をないがしろにしていいということではありません。たしかに現代のわれわれを取り巻く美や芸術に関わる様々な新しい状況は、これまでの美学や芸術学だけではなかなか捉えきれないところがあることは事実でしょう。しかしだからといって、自分の学問的な基盤を何ももたずに無手勝流でいったのでは、いたずらに対象の新しさに振り回されるだけで、何も得ることはできないでしょう。「芸術」と呼ばれるものが多様化し、新しい状況が生じているという認識自体、伝統的な「芸術」の概念をしっかり押さえているからこそ可能なのです。美学や芸術学の先人たちの知見を踏まえて、そういう覗き眼鏡を通してみると、同じ世界が違ってみえるようになる、そのことにこそ、われわれの専修課程の存在意義があるのです。一見したところ新しく現代的であると思われたことがらが決してそうではなく、過去にも論じられた問題であったり、またその延長上にあったりすることがわかることもあります(人間なんて、そんなに簡単に「進歩」するものではないのです)。
 そんなわけで、われわれの専修課程ではその覗き眼鏡の性能をみがくために、古典的なテクストを精読し、それを厳密に研究する訓練をすることに重きを置いています。美や芸術という概念が、さしあたって西洋の文化に深く根ざした形で出てきたものであるという事実を踏まえるならば、そのためには西洋語のテクストを読むことが不可欠となります。英語に加えて少なくとももう一つは得意な言語を作っておくことが必要でしょう(ちなみに、将来大学院に進学したい人は、入試で英独仏伊露のうちの2カ国語を受験しなければなりません)。ギリシャ語やラテン語も修得するのは大変ですが、それらを修得して古代・中世から伝わる様々な文献を読みこなすようになれば、覗き眼鏡の性能が格段に上がることは間違いのないところです。

 ここで教員スタッフの専門と授業について紹介しておきましょう。渡辺教授の専門は音楽学で、西洋および日本の音楽文化の「近代化」の考察を中心に、文化の伝承や受容、変容のプロセスやメカニズムを探る試みを行っています。小田部教授はライプニッツからヘーゲルにいたるドイツ語圏の美学理論を中心に、思想史的観点から、近代美学を支えてきた様々な概念や思考の見直しと組み替えを目指しています。安西准教授はイギリスやフランス18世紀の芸術理論を中心に、自然美や庭園、絵画理論など、様々な領域の研究を行なっています。
 これら3人のスタッフを中心に多様なカリキュラムが組まれています。美学や芸術学の概論やそれぞれの専門に応じた特殊講義などの講義科目が開講されるのはもちろんですが、とりわけ重要なのは、原典講読、演習など、学生の参加を前提に成り立つ科目です。原典講読としては、フランス語、ドイツ語、英語、ギリシャ語の講読の科目が開講されていますが、これらは外国語の訓練になる以上に、本や論文をクリティカルに読むという、研究にとってもっとも基本的な姿勢を身につけるためのものです。原典講読が学問的に「読む」ことの鍛錬の場であるとするならば、演習は論理的に考え他者とディベートし、学問的に「書く」技術を修得する場であり、これは各学年で指定されたコマを履修することが義務づけられています。実際的な技術というよりは、ものの考え方や論の立て方を主眼としたものですから、レポートや卒業論文を書くという具体的な場面で応用できる以上に、ものの見方や考え方を養うという効果の方が大きいかもしれません。また、とりわけ個別芸術学は多様な分野を包含しているため、他大学から演劇学、美術学、音楽学、文芸学、建築学、映画学等諸分野の専門家を非常勤講師として招いています。カバーしなければならないジャンルが多岐にわたっているため、個々の領域について毎年各ジャンルの講義を全て開講するわけにはなかなかいかないのですが、可能な限り多彩な領域を、また古典の世界から現代の状況に至るまで、多くの問題意識をカバーできるようなカリキュラムになるよう、心がけています。
 卒業には4万字程度の卒業論文を書かなければなりません。論文のテーマは、広い意味での美や芸術に関わっておりさえすればどのようなテーマを選んでもいいのですが、どのようなテーマを選ぶにしても、ただ一生懸命勉強してレポートをまとめたというようなことではなく、自分自身の問題意識を磨き、自分で問題設定を行った上で、その問題に論理的に迫ってゆくことがもとめられます。もちろん最終的には自分自身が頼りですが、そういう問題の立て方にしても、論理の展開の仕方や資料の有効な使い方にしても、講義や演習はもちろんのこと、研究室でのとりわけ大学院生たちとの日常的な交流(時には雑談)からヒントを得る部分が結構多いように思います。それもまた教育のうち、とわれわれは考えています。

 卒業後の進路も様々です。この専修課程で学んだ美学・芸術学の知識を狭い意味で文字どおりに生かすということになると、大学院に進学して研究者になる以外には、なかなかそれを有効に生かす就職先はないというのが正直なところですが、それでも、古くは前衛的ヴィデオ・アーチストとして世界的に知られるナム・ジュン・パイク、映画監督の中嶋貞夫、脚本家の倉本聡から、作家の小林恭二、映画監督の井坂聡など、売り出し中の若手にいたるまで、芸術の「現場」にも多くの人材を送り出していることは、この専修課程の特色でしょう。テレビをはじめとする映像制作の現場に身を投じる人もいます。もちろん、現実には、芸術とは直接に縁のない世界に職を得る人も多く、そういう場合にはたしかに、狭い意味での美学や芸術学の知識自体が直接的に役立つというようなシチュエーションはあまりないかもしれませんが、それでも、この専修課程で養った覗き眼鏡を通して世界を見る見方や、論理的に考えディベートする能力が有効に生かされるような場面が必ずや訪れると、われわれは信じています。

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