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インド語インド文学
進学相談担当 : 梶原 三恵子 准教授(内線23755)
(1)はじめに
よく知られているように,インドは世界の四大文明の一つ,インダス文明発祥の地である。しかし,現実のインドのみならず,数千年におよぶインドの文化についてもほとんど知られていない。たとえば,われわれの専修課程の標語は「ゼロから始めるインド文学」であるが,「ゼロ」とはインドで発明された概念である。なにもないものを数値化・実体化,つまりゼロという「もの」としたインド人の知恵には恐れ入る。また,環境にたいし議論の高まる昨今,「環境に優しい」とはよく言われることである。しかし,紀元前5世紀ごろのインドで,仏教とほぼ時期を同じくして成立したジャイナ教では,自殺を理想的な死とする。というのも,人は生きれば生きるほど微生物をふくめた他の生物を殺すことになり,罪が増えるわけであるから,己が死ぬことが罪を犯さない最高の方法だからである。環境を破壊しているのは間違いなく人間である。ジャイナ教的な発想の断片でもあれば,「環境に優しい」というのはあまりに欺瞞に満ちてはいないだろうか。
国際化が叫ばれるようになって久しい。しかし,上の例からも明らかなように,内実は寂しい限りである。それどころか,たしかに国際化が進んでいる分野もあるが,他方では,目先の国内事情にのみ腐心する傾向もますます強くなっている。これからのわが国を担う学生諸君には,目先のことだけにとらわれずに広い視野をもってほしい。東洋・西洋といった区分に大きな意味があるとは思えないが,かりにその区分を用いるなら,インドはちょうどそのはざまに位置する。従来の文化志向ではみえてこないものが,インド文化を学ぶことによってみえてくるだろう。
学部生活は2年にすぎない。この短期間に何ができるだろうかという思いは強いであろう。ましてや,以下に述べるように,インド語インド文学専修課程(略称「印文」)では語学の習得とテキスト講読を中心とするから,かなりの時間を予習にとられることは避けられない。しかし,広く浅く,しかも場当たり的に多くの書物を読んだところで得られるものは少ない。なによりも,そのようなやり方では,大学という学問の場にいながら,学問するという経験をしないで大学を去ることになる。また,異文化理解にしろ自文化理解にしろ,一朝一夕でできるものではない。むしろそれらは,辞書を繰りつつテキストに向かい,個々の単語や行間に思いをはせるという,日々の地道な努力によって可能になるのである。そのようなことができるのも,学生時代だからであることは言うまでもない。
(2)インド語インド文学とは
紀元前2000年期のインダス文明については,文字の解読を含めいまだ多くのことが明らかにはなっていないが,前1000年期の文学であるヴェーダはかなり正確に伝わってきている。つまり,インドを対象とする学問は,3000年をはるかに超える時代を含むことになる。この間にはインドアーリア語系やドラヴィダ語系などの,おそらく数千におよぶ言語が生じては消えていったと思われるが,現在でも数百におよぶ言語があり,公用語だけでも22にもなる。また,ここで言うインドとは,今日の「インド共和国」ではなく,インド文化が栄えた地域であるから,時代によっては周辺のバングラデシュ,プータン,ネパール,パキスタンも含む(したがって,このような場合,「南アジア」とか「インド亜大陸」と呼ぶこともある)。また,インド文学というとき,それは詩歌・説話などの狭義の文学作品だけでなく,学術論書,宗教文献なども含んでいる。このように,インド文学は,地域,時代,言語,内容ともに,非常に広範囲を対象としている。
インド文学は,質と量のいずれにおいても世界に冠たる文学であり,アジアのみならず西洋にも少なからぬ影響をあたえてきた。そこで,世界の主要大学はインド学(インド文学・哲学を中心とした関連諸学)の講座をもつ。わが国でもインド文学講座(当初の名称は「梵文学講座」)の歴史は古く,東京大学に開設されたのは明治34(1901)年である。
インド研究にはさまざまな観点と方法がある。また,そのようななかで,本専修課程で目標とするのは,3千年の歴史をもつインド文化の形成と発展にもっとも重要な役割を果たしてきた,サンスクリット語やタミル語などを学びながら,それらの文献にそくして,インドのみならずアジア諸地域にも広く伝播してゆくインド文化を探求することである。
(3)教員と授業の紹介
インド文学の対象とする時代も領域も広いが,本専修課程の専任教員は目下のところ二人である。梶原准教授はサンスクリット語学文学を専門とするが、ここ数年の主な関心は、ヴェーダ期の家庭祭礼の研究を通じて、インド古代社会の一端を解き明かすことである。高橋孝信教授はタミル古典文学が専門であるが,ここ数年は古代の英雄詩や叙事詩の研究のほか,文学と歌謡との関係,古代史の再構築などに関心をもっている。もっとも,これら教官の専門研究が講義・演習にそのまま反映されるわけではなく,狭義の専門分野を越えて,さまざまな領域の講義や演習が行われることが少なくない。
これら専任教員のほかにも,毎年,2~3名を非常勤講師としてお招きし,それぞれの専門領域の講義を担当して頂いている。
必修科目としては,文学史概説・演習・特殊講義のほかに,語学概論が設けられている。なかでも語学概論は,原典を読むために必要な語学力の習得を目指しており,サンスクリット語の他に,もう一つのインド語(タミル語・ヒンディー語・パーリ語など)の学習を必修としている(これは,想像するほど大変なことではない)。演習では,例えばマハーバーラタ,ジャータカ(仏教の本生譚),ウパニシャッドなど,サンスクリット語・タミル語・パーリ語などのテキストを講読することになる。特殊講義も演習のような形で行われることがある。
(4)進学から卒業まで
このようなわけであるから,本専修課程に進学を希望する学生は,語学学習にそれなりに時間を奪われることを覚悟しておいて欲しい。その点,教養課程でサンスクリット語の初歩を学んでおいた方がよいかもしれない。また,将来,研究をつづけることも考えているなら,諸外国語(英語,ドイツ語,フランス語など)の研究書や論文を読む必要が生じるから,それらの読解力を少しずつ養ってゆくことが望ましい。しかし,だからといって狭義の語学的才能が必要なのではなく,むしろ他の多くの学習と同様に,日々の努力を怠らない堅実さが重要なのである。
このような学習態度は進学しても求められる。サンスクリット語やタミル語の文法は複雑であるが,日々の地道な努力によって,少しずつそれらの文献の読解力を身につけてゆくことができるであろう。そして,堅実にじっくりと噛みしめながら原典に取り組むうちに,おのずからそれらインド語学習と原典講読のおもしろさはもちろん,学問する楽しみをも味わうことができるようになるだろう。
本専修課程は古典研究のみならず,将来たとえば,ラビンドラナート・タークル(タゴール)のベンガーリー語詩歌やプレーム・チャンドのヒンディー語小説などの研究に携ろうとする学生にも,門戸が開かれている。しかし,このような近代インドの語学文学を志す学生にも,まずサンスクリット語などの知識を身につけることがもとめられる。このような行き方こそ迂遠なようでいてもっとも堅実なものと考えられるからである。
卒業後は大学院へ進学する者が多い。そのためか,卒業に際して卒業論文の提出あるいは特別演習が求められるが,原典講読の基礎訓練となる特別演習をとる学生が多い。しかし,このことは卒業論文の提出を望まないということではない。
本専修課程では,学部ではインド語の学習とさまざまな原典講読をし,学生がみづからの専門を決めるのは大学院進学後ということが多い。そこで,参考までに目下大学院に在籍しているインド文学系の学生の研究内容を記しておく。
博士課程
・サンスクリット叙事詩
・インド科学史
修士課程
(現在なし)
―サンスクリット文学作品から―
tasmad asaktah satatam karyam karma samacara/
asakto hy acaran karma param apnoti purusah// (Bhagavadgita 3.19)
故に執着なく,常になすべき行作をなせ。
何となれば,執着なく行作をなす人は,
最高なるものに達す。 (辻直四郎訳)
cutayastya samaslisto drsyatam tilakadrumah/
suklavasa iva narah striya pitangaragaya//
balasokas ca nicito drsyatam esa pallavaih/
yo 'smakam hastasobhabhir lajjamana iva sthitah// (Buddhacarita 4.46, 48)
このマンゴーの細枝にからみつかれたティラカの木をごらんください。
それはあたかも白衣を着た男が,
その四肢を,黄色の顔料で塗った女にからみつかれているようであります。
また,
あの若芽を盛ったアショーカの若木をごらんください。
それはあたかも私たちの手があまりに美しいので,
恥ずかしそうに赤らんでいるかに見えます。 (原実訳)
―タミル文学作品から―
tiyinal cuttapu unullarru marate/
navinal cutta vatu//
irunok kivalunka nulla/
torunokku noynokkon rannoy maruntu// (Tirukkural129, 1091)
火によって焼かれた傷は,心の中で癒される。
舌によって焼かれた傷は,癒されることはない。
彼女の化粧を施した目には二つの眼差しがある。
恋の病を引き起こす眼差しと,それを癒す薬となる眼差しである。(高橋孝信訳)
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