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(1)西洋古典学は誰のための学問か? 日本人が、西洋において、「あなたは何を勉強していますか?」という質問に対して、「西洋古典学(Classics)です。」と答えると、相手は驚くが、そのあとは説明の必要はない。相手が西洋古典学を専攻しているか、あるいはしたことがある場合以外は、次の話題に移る。相手との間に信頼関係とまではいかなくても、一種の共通理解が生まれているからである。これは、相手が学者や学生でなく、いわゆる社会人(ビジネスマン)でも同様な会話が交わされるであろう。もちろん、西洋においても現代は西洋古典学を学ぶ学生は激減し、コンピュータ・サイエンスなどがそれに取って代わっている。 他方、日本において就職活動(面接)の中で、同様の質問に対して同様の答えをすると、相手(面接担当者)は驚き、重ねて質問をしてくる。「それはどんな学問ですか?」と。そして、まじめな学生は「ギリシア語・ラテン語のテクストを原文でよみ、最終的にはテクストを校訂することを目指す学問です」と答える。この答えに対して、大抵の場合、相手(面接者)は「それならば大学に残って勉強を続けた方がいいのではないですか。」と言い、「お帰りはあちら。」ということになる。西洋古典学は、西洋古典学研究者のための学問なのであろうか。 確かに、人文学は、一般的に言って、職業選択に直結したものではない。とはいえ、退職者と研究者のためだけの学問というのは、あまりに極端であり、不健康な状態と言わざるを得ない。もちろん、このような回答は誇張であり、実際には西洋古典学以外の分野を専攻する学生も西洋古典学を勉強する。この場合の西洋古典学は、それぞれの(専門)分野でギリシア語とラテン語で書かれた文献(例えば、哲学文献、歴史文献、法学文献など)を読むための準備としての学問ということになる。 先述の就職担当者の無知・無教養を笑うのはたやすい。しかし、西洋古典学が「普通」の学問であることをこれまで正面から説明してきたであろうか?実際には日本の西洋古典学がギリシア語およびラテン語の文法的入門的教育とならんで従事してきたのは、古典作品、とくに古典「文学」作品の翻訳であった。これによって、西洋古典学は他分野の研究者および「教養ある」社会人に貢献してきたのである。しかし、だからといって、「西洋古典学はだれのための学問か」という質問に答えたことにはならない。 西洋古典学は「西洋」古典学である。西洋で生まれ、西洋で発展してきた学問である。では、西洋ではなぜ古典学を研究・教育したのか、なぜそれが発展したかと問うならば、それを習得した人間が社会で活躍したからに他ならない。当たり前のことだが、教会の聖職者はみな古典学を学んでいた。一方、ローマ法のトレーニングで鍛えられた者が、国王官僚や裁判官として世俗世界を支配した。さらに、西洋古典学を習得したものが、植民地官僚として海を渡った。もちろん、大学における古典教育の前段階として、中等教育における古典語の教師が大量に必要とされたことは言うまでもない。 20世紀における二度の世界大戦を経て、西洋古典学をめぐる学問と社会のこのような相互関係は大きくゆらいだ。西洋古典学に限ったことではないかもしれないが、いわゆる「人文学の危機」が叫ばれて久しい。しかし、この学問はしぶとく生き残っている。それは何故か。 二つの側面から、その理由を説明できるように思われる。一方では、西洋古典学は、既成のあるいは確立したテクストの「主観的」な解釈によって勝負のつく学問ではなく、誤解を恐れず言えば、一種の客観性をもった諸手続きを踏まえた「学問」ないし「科学」であるからである。新しい資料の発見がある。進歩もあれば退歩もある。自然科学と同じだとすら言ってもよい。実際、合衆国の学士課程教育では、「西洋古典学」と「数学」をダブル・メジャーにしている学生もめずらしくない。 他方では、上記の説明と矛盾する印象を与えるが、この学問を学ぶ中でしごかれるのは、限られたテクストないし限られた解釈可能性の中から、なんとか「より納得のゆく」解釈を発見することである。このトレーニングこそ、社会に出てから、限られた時間と資源と能力の中で、「より妥当な問題解決」を発見することに役立つのである。誤解を恐れず言えば、西洋古典学はきわめて実用的・実践的な学問である。 歴史的伝統を異にする我国において、西洋古典学に対する期待と需要が決して途絶えない理由は、この学問のもつ上記のような「生態」と「磁力」に、知的好奇心のある人々が惹かれるからではないかと思われる。さらにもう一つ言えば、西洋古典学研究者が放つ個人的・人間的な芳香ではないだろうか。少なくとも筆者にとってはそうである。 本郷に進学する前に初等文法を勉強していなくても心配ご無用。むしろ、駒場では西洋古典と(一見)関係ないことをやってきてほしい。そして本郷にきたら、「文学部の外国語科目」として両言語の入門授業を開講しているので、必ず出席せよ。司法試験の勉強と同じで、「宅浪」ではものにならないばかりか、悪い癖がつく。最初は専修課程の他の授業についていくのは大変だと思われるが、夏休みにがんばれば、3年生の後期からは授業についていけるようになるので、焦らず、着実に授業に出席してほしい。「宅浪」はいけない。 学問は「一人でするもの」と言う大学の先生は多いが、少なくとも学士課程に関しては筆者はそうは思わない。人は競争(他人にまけたくない)によって学ぶ。西洋古典学専攻の学生は多くはないが、多くはないからこそ「力をあわせて競争して」ほしい。 また、専修課程の授業の中には、ギリシア・ローマ社会の全体的特徴を幅広く説明する、授業も開講している。特に、宗教と法をテーマとした授業は、他の大学ではあまりみられないユニークなものである。また、西洋古典学専修課程は、古代哲学と西洋古代史の授業を選択必修としている。 本家(西洋)における西洋古典学の雰囲気を味わい、世界の「トップ」に会うために、古典学の世界センターであるオクスフォード大学で毎夏「TOPS=Tokyo Oxford Programme of Summer」を開催している。何としても参加してほしい。1か月のオクスフォード生活は必ず諸君の人生を左右する衝撃を与える。そのほか、「クラシカル・セミナー」と称する研究会を1年に6回くらい開催している。報告者の中には、海外の研究者がかならず何名か含まれている。また、「アカデミック・ライティング」の授業も開講しているので、がんばって英語でレポートや論文を書く訓練をしていただきたい。西洋古典学は英語で論文を書くのに向いた学問である。これらの機会を通じて、いやでも英語力は向上する。 こうして創られた人材は、内外を問わず社会の「あらゆる」部門で能力を発揮する。 |