薬学部の歴史・沿革
薬学における東大薬学部  薬学部の歴史・沿革(1  )  薬学部の年譜

 東京大学大学院薬学系研究科の源流は、明治6年(1873)文部省布達により東京神田和泉町の医学校に 製薬教場が設置されたことに始まる。明治10年(1877)東京大学創立に伴い、製薬学科となり、同20年 (1887)医科大学薬学科に改組された。発足当初、ドイツ人ミュルレル氏らの勧告によって、医師が患者に 投薬する日本古来の医療慣習の危険性、粗悪薬品の輸入防止などへの対策として薬学研究教育の重要性が 指摘されたことが契機となったこともあり、医学と薬学の緊密性をうたったドイツ式教育がその中心とな った。明治7年ドイツ留学から帰朝した柴田承桂氏が初代教授となり外国人教師が加わり、明治11年最初 の卒業生として9名の製薬士を送り出した。医科大学薬学科に改組された後は、第1回製薬士下山順一郎、 丹波敬三の両教授と丹波籐吉郎助教授の担任で開講され、明治23年薬学科第1回卒業生として5名に薬学士の称号が授与された。
 明治26年(1893)薬学科に生薬学(下山順一郎)、衛生裁判化学(丹波敬三)、薬化学(長井長義)の3 講座が、設置されるとともに、同39年最新式の赤煉瓦の薬学本館が完成、同40年に増設された薬品製造学 講座(丹波籐吉郎)を加えて名実ともに近代薬学教育研究体制がスタートした。大正8年(1919)の学制 改革により医学部薬学科となり、昭和5年(1930)臓器薬品化学(昭和29年生理化学と改称)、昭和17年 (1942)薬品分析化学の2講座が新設された。その間関東大震災、第二次世界大戦の苦難の道を乗り越えな がら、薬学研究教育の使命を果たしてきた。当初薬学研究の主力は製薬楽、とくに草根木皮よりの薬効成 分の単離、構造決定、合成研究が活発に行われた結果、長井長義のエフェドリンの発見を始めとする高水 準の天然物有機化学、合成有機化学が東大薬学に開花し、その後の研究の主流をなして来た。
 昭和24年新制大学として再編成された医学部薬学科は教科目の充実をはかるべく、製剤学、薬品作用学 の2講座を新設、8講座体制が敷かれたが、さらに総合科学性の極めて高い薬学の本質に鑑み、有機化学 に加えて基礎学として生物化学、物理化学系の充実強化をもはかるべく、その機が熟した昭和33年(1958)、 80余年の来歴に終止符をうち、医学部より独立、東大薬学部が誕生した。学部独立により薬学科、製薬化 学科の2学科制をとるとともに、学生定員も35名から70名へと倍増、さらに新館建築、諸施設整備がはか られた。講座も薬品製造工学(1960)、微生物薬品化学(1961)、薬品物理化学(1961)、薬品合成化学 (1963)、薬品物理分析学(1967)が、さらに薬害をめぐる社会的要請にもとづき薬害研究施設(1966)が 相次いで設置された。さらに昭和48年(1973)には現在の千葉市花見川区畑町に薬用植物園が設けられた。